一楽二萩三唐津やからつものと言われる「唐津焼」。唐津焼の技術、そして特徴的な作風。技術はどこからやってきて、どのようにして現在の形になっていったのか。また、有名な磁器の有田焼の誕生と唐津焼の関係と衰退について紹介!
まず、唐津焼(からつやき)という名は、
作られたやきものが船積みされ外へ出ていくときの
港であった「唐津」の名からきていると言われています。

当時の人たちは、
「岸岳焼」や「稗田焼」と呼んでいたとされています。
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~誕生~

唐津焼の誕生は、
朝鮮半島から渡来した陶工の窯が、
岸岳のふもとに築かれたことに始まります。


朝鮮半島から伝わった技術なので、
当時の唐津焼の見た目は
朝鮮半島のものと区別のつかないようなものも多いです。

月日を重ねていくうちに、
独自の作風が次々と生まれ、多様に。

そして、
現在の唐津焼の姿へと変化していきます。

この時に入ってきた、
釉薬(ゆうやく・うわぐすり)や、蹴ろくろ。
登り窯などの様々な技術は、
これ以降の日本の陶器づくりを
大きく変えることに...。

その後、
岸岳城の二度の陥落によって、
陶工たちは岸岳を離れ、
岸岳の窯は衰退していったと考えられています。


~補足~
現在唐津焼と呼ばれているやきものの誕生は、
南北朝時代の末から室町時代中期、
室町時代末期や桃山時代中期など、諸説あります。

本当のところはわかりませんが、

室町時代末期は応仁の乱からうかがえるように、
戦乱の世の中であったこと。

また、
倭寇と言われる海賊が、
朝鮮半島(北)に行った時期が、
南北朝時代の末から室町時代中期であること。

このことから、
岸岳のふもとに窯が築かれた時期(唐津焼の誕生)は、
室町時代前期または、中期とする説が、
私なりにしっくりくる解釈です。

~全盛期~

唐津焼の全盛期は、
豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が
大きくかかわっています。

朝鮮半島の人々を連れてくる。
日本側との関わりがあった人が日本の軍に
ついて日本へ渡ってきた。

など、
さまざまな可能性が考えられますが、
この文禄・慶長の役のタイミングで
朝鮮半島の人々が日本へ渡ってきました。
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そして、
渡ってきた人々の中の陶工たちは
各大名たちの領地の産業推進を担います。

佐賀県内から長崎の一部まで。
岸岳周辺で作られていた時期よりも
かなり広い範囲で唐津焼が作られるようになり、
圧倒的生産量を実現。
岸岳周辺の窯も復興します。

慶長からの約50年間。
唐津焼は全盛期をむかえ、
美術館に置かれているような
名器と呼ばれる作品たちが多く生まれます。

~衰退~

約50年もの間、
たいへんな盛り上がりを見せた唐津焼も、
あることをきっかけに衰退をはじめます。

文禄・慶長の役にわたってきた陶工、
李参平は現在の佐賀県多久市で陶器を作っていました。

その後、
現在の有田に移り住み、
「白磁鉱(はくじこう)」と言われる、
磁器づくりの材料が発見され、
日本での磁器生産が始まります。

発見されるまでは、
伊万里・有田・武雄地域の多くの窯でも、
唐津焼様式のものが作られていました。

しかし、
一部の階層の人々が輸入によって手に入れていた磁器は、
国内で生産が出来るようになったことをきっかけに、
庶民の日用品として普及。

全国的に需要が激増し、
有田の磁器産業はおおきく発展します。

その結果、
唐津焼は深刻な影響を受けることに...。

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